名匠トリュフォー監督の“もうふたつの顔”?が生んだ超・ド級の激レア作品が、封印を解かれ復活!その②『のらくら兵‘62』
DVDにプレミア価格がついている!いや、未円盤化でVHSが最後!! いや、未ソフト化で大昔に劇場かTVでやったのが最後!!! いや、そもそも日本未公開!!!!! ここでしかなかなか見られない~完全にここでしか見られない、まで“激レア”な映画を夜っぴて味わうサーズデイナイト。題して「木曜 夜なべ激レア」。11月に放送される”超・ド級の激レア作品”を2回に分けてご紹介。
目次
1961 SEDIF / LES FILMS DU CARRROSSE / ANRAY FILMS
【激レア】の頂点が降臨、それも最新4Kレストア版で。心して見よ!そして本作の“ナゾ”とは…?
今年・2024年が没後40年にあたる名匠フランソワ・トリュフォー監督。ヌーヴェル・ヴァーグ(以下NV)の旗手として活躍、52年という短い生涯で遺した21本の長篇と数本の短篇は、ここ日本を含む世界中でいまだに繰り返し見続けられ、新たなファンも生み出している。そんな彼には監督作だけでなく、友人やNV仲間の監督のために「脚本を提供」し、尊敬する先達や注目する気鋭の監督の「作品を製作」するといった、ふたつの“アナザー・ワークス”もあった。前者で有名なのは同志だったGOD=ゴダールの、あの『勝手にしやがれ』(1960)のオリジナル脚本の提供(*1)、後者ではジャン・コクトーの遺作『オルフェの遺言』(1960)への参画、であろう(主な作品を別記①にまとめたので、併せてご覧いただきたい)。
今回【木曜 夜なべ激レア】ではその中から先ず、トリュフォーが共同脚本と製作を担い、“トリュフォー組の最重要脚本家のひとり”ジャン=ルイ・リシャールが監督した『マタ・ハリ』(1964)が放送されたが(同作については
コチラからどうぞ。併せて読んでね!)続いてもう一本、親友のクロード・ド・ジヴレーの監督デビュー作『のらくら兵‘62』(1960)が登場する。今回の放送が正式な日本初公開で、もちろん過去の各種ソフト化も、配信履歴もナシ!見出しに書いた“超・ド級の激レア”が決して大げさではない貴重作なのだ。しかも、いきなり出来たばかりの美麗4Kレストア版
(*2)でのお届け。こんな贅沢、あるでしょうか?(笑)
トリュフォーは『マタ・ハリ』同様、本作でもジヴレーと共同で脚色(原作の舞台劇がある。後述にご参照を)し、自身の会社レ・フィルム・デュ・キャロッスで製作も担当したが、それだけでなく“共同監督”でもあった…?『マタ・ハリ』の原稿の最後で予告篇よろしく上記のナゾを残したが、果たして本作が「トリュフォー監督、22本目の長篇映画」にカウントされうるか、も含め、以下でもう少し詳しく触れてゆきたい。
1961 SEDIF / LES FILMS DU CARRROSSE / ANRAY FILMS
大ヒット軍隊コメディ舞台劇の、実に5度目の映画化には多彩な出演陣と豪華ゲストが集結
貴族の家系のお坊ちゃま、ジャン・ルラ・ド・ラ・グリニョティエールといえども兵役に就く時が来た。おばの計らいで、知人のショーデルロ大佐の兵舎に配属して貰うが、それまで“平民”との付き合いが皆無のジャンは初日から高貴なご身分を丸出しにし、伍長のいびりの対象になる。同じくおばが手を廻し、ジャンの小隊に入った運転手のジョゼフはすぐ軍になじむが、対照的にジャンは浮きまくり、そのヘタレぶりは大佐も知るところに。だが休暇中にジョゼフが他の隊の兵士とガールフレンドをめぐってモメたのが原因で、隊どうしの枕戦争に発展。諍いとは無関係なのに、生まれつきの夢遊病のため徘徊していたジャンが営倉に入れられてしまう…
某は本作を「“映画の親父”ジャン・ルノワール監督、1928年作のリメイク」と覚えていたが、調べるとアンドレ・ムエジー=エオン
(*3)とアンドレ・シルヴァン
(*4)の共作による大ヒット喜劇の台本が原作で、ルノワール版はその2度目
(*5)の、本作が5度目の映画化だそうだ。
キャストには、先ずお坊ちゃまのジャンに本作がデビュー作だったクリスチャン・ド・ティリエール。面長なルックスが特徴で、『ボルサリーノ』(1970)を含むドロン諸作やリヴェットの『アウトワン』(1971)等に出演。“ドワネルもの”第3作『家庭』(FT、1970)にも出ていた。“ちゃっかり八兵衛”なジョゼフには歌手のリセ・バリエ。1968年に♪Les Vacanciersがヒット(B・ルルーとの共作、
YouTubeでも視聴可)、またあの「バーバパパ」のTVアニメ版の声優と挿入歌も担当していたとか。本作でラジオから彼の曲が流れ、それに併せ門番のジョゼフがライフルをウクレレ?に見立てて弾きマネするシーンがあった。人がよすぎて若干頼りない第1小隊の伍長に『大盗賊』(1962)『大頭脳』(1969)のジャック・バリュタン、独特の話し方と大きな芝居が可笑しい大佐役セルジュ・ダヴリは『ピアニストを撃て』(FT、1960)に出ていた様だ。
加えて、監督やNVの周辺人脈の面々が特別出演。トリュフォーの家出少年時代からの親友ロベール・ラシュネー(本作の助監督でもある。本篇8分周辺の門番役?)、本作の後『突然炎のごとく』(FT、1961)のジム役に抜擢されるアンリ・セール(枕戦争のシーンでノックアウトされる兵士?)、ラストの駅員に、コメディ俳優・監督の大御所ピエール・エテックス(『大恋愛』(1968)他)、また『あこがれ』(FT、1957)『私のような美しい娘』(同、1972)のベルナデット・ラフォンが本人として登場。さすがにまだ『ママと娼婦』(1973)の様な“姉御”ではなく、まるでグラビアアイドル!な出方で、当時の彼女のポジションが伺え勉強になりました(笑)。そしてジャンが放り込まれる営倉の先客は、トリュフォーその人!ファンならご存じと思うが“経験者”なので、何とも自虐的な役でのカメオ出演だが、ブタ箱でゲーテの「若きウェルテルの悩み」に読みふけっているのだった(*6)。
さらに本作には、出演の時点では無名だった、以降のフランスの各メディアで活躍する人材が集まっていた。別記②にまとめたが、「こんな人も出てたんだ」と驚かれると思う(某も調べて驚いた)。その辺りにもご注目いただきたい。
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嗚呼、「これぞヌーヴェル・ヴァーグ映画」な瑞々しさ。二度と再現できない“特別な時代”を体感
「フランソワ・トリュフォーと一緒に見て覚えた、タチやチャップリンやバスター・キートンらのギャグで、軍隊コメディを創りたかった」と本作の製作意図を振り返る(*7)クロード・ド・ジヴレー。10代の頃にトリュフォーとシネマテークで知り合い、NVのベースとなった映画誌「カイエ・デュ・シネマ」の編集部に出入りし、彼の招きで週刊誌の映画評にも手を染め、その後彼の短篇『あこがれ』等の助監督に就き、『夜霧の恋人たち』(1968)『家庭』ではシナリオに参加(*8)、彼の死の直前まで『小さな泥棒』(1988、クロード・ミレール監督(*9))の基になった脚本を一緒に書いていたという親友、そしてコラボレイターであった。
話を50年代後半~60年初頭に戻して…「カイエ」の同人たち、順にリヴェット、シャブロル、トリュフォー、ロメール、GODといった面々が、同誌等に映画評を寄稿する批評家から、いよいよ映画を創る側に挑み始めた時代である。彼らを中心に、従来の撮影所システム出身ではない、映画へのハンパない情熱と知識でもってデビューを果たした若き監督たちが雨後の筍の様に誕生していたそうで(*10)、NVは大きなムーヴメントとなっていった。そんな中、ジヴレーも「次はオレの番!」と意気込んで、本作に取り組んだに違いない。
そんな気合が感じられ、何とも初々しく憎めない作品なんだよね。NV映画では当然の、おカネのかかるセットを使わない、臨場感重視のロケ撮影。冒頭の軍のパレードの場面も、実際の第一次大戦の休戦記念日(11月11日)で撮られたと推測する。そこでジョゼフが声掛けした女性アニーに、その晩の待ち合わせ場所(*11)を記した風船を手渡すも彼女が放してしまい、宙に舞って行ってしまうシーンの詩情。またスクーターやジープの移動シーンでの、エモーショナルなワンカット撮影(“NVのカメラマン”名手ラウル・クタール(『突然炎のごとく』『気狂いピエロ』(1965)他多数)の仕事。因みにタイトルバックでチラっと本人映ってます)。枕戦争のシーンはジャン・ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』(1933)へのオマージュだし、本作の製作時でも既に古典的手法だったであろうトリック撮影や、ジャンと大佐の娘カトリーヌの、見ているこちらが小っ恥ずかしくなる様な(苦笑)ファンタジックなダンス・シーンまで盛り込まれている。これらは、監督たちの映画的記憶から生まれたんじゃないかな?(*12)そんな各場面や撮影スタイルが、青臭さも含め、もう“ど真ん中のNV映画”という感じなのだ。1960年の前後数年でしか創りえない、二度と再現できない“あの時代の映画”の雰囲気。それが純正コメディの本作に、ひと味違う魅力を加えていると思う。
1961 SEDIF / LES FILMS DU CARRROSSE / ANRAY FILMS
実際、その後のジヴレー監督作を見ると、場数を踏んで上手くなってゆくのである…と書いたけど、監督第2作『Une Grosse Tête』(1962、本作もトリュフォーが脚本に参加。エディー・コンスタンティーヌ主演のコメディ)は手を尽くしたものの現時点では見られずじまいだが、第3作『Un Mari à Prix Fixe』(1965、アンナ・カリーナ主演のこれまたコメディ)や第4作『L'amour à La Chaîne(鎖につながれた恋)』(同、ジャン・ヤンヌ出演の『モナリザ』(1986)ライクな映画)は、もう“プロの仕事”だった。以降、ジヴレーは前述通りトリュフォーへの協力を続けながらTVに進出し、「Mauregard」(1970)(*13)等のドラマや「現代の映画作家」(1964-1972)(*14)等のドキュメンタリーを演出。1985年のカンヌ映画祭で、トリュフォーの追悼式が行われた際に上映された「Vivement Truffaut」も彼の作だそうだ。同年にはTV局TF1のフィクション番組のディレクターに就任、日本でも放送された「女警部ジュリー・レスコー」(1992-2014)等のヒットシリーズに関わった。映画とTV双方で、ほんとバランスよく活躍した人といえよう(*15)。
…で、結局本作は「トリュフォー監督、22本目の長篇映画」にあたるのか?
実は某も「長篇は21本」と認識していたのだけど、海外の映画サイト等では「22本」が定説の様なのだ。この点を確かめたくて、終いには権利まで買っちまったが(苦笑)、念願叶って本作を見ると…
1961 SEDIF / LES FILMS DU CARRROSSE / ANRAY FILMS
タイトルバックには「演出:クロード・ド・ジヴレー」、そして少し級数は小さいが「共同監督:フランソワ・トリュフォー」と、確かに出る!(笑)GODとの共作短篇『水の話』(1958)は監督作としてカウントされているので、海外側の判断も頷けるところだ。
ただ基本的にはジヴレー主導で、トリュフォーは(監督としては少し先輩なので)親友のデビューをバックアップする、という役割で参加していたのでは?と感じたが…さて、あなたはどうお思いか。今すぐスターチャンネルに加入し本作を見て、この大いなる問題に挑戦しやがれ!!!
※本稿内共通)作品名の後に「FT」と記されているのはフランソワ・トリュフォー監督作です
■別記①複数ソースを相互参照したが一致しない!(苦笑)という訳で以下、作品の抜けや誤りがあるかもしれませんが、何卒ご了承願います。本文中で触れた作品は記載を省略。作品名の後は製作年、監督の順で…製作作品)『Anna La Bonne』(1958・短篇、『僕のアントワーヌ伯父さん』のクロード・ジュトラ)、『パリはわれらのもの』(1960、ジャック・リヴェット)、『Le Scarabée D'or』(1961・短篇、ロベール・ラシュネー)、『14-18』(1963・ドキュメンタリー、ジャン・オーレル)、『裸の幼年時代』(1968、モーリス・ピアラ→マグ・ボダールとの共同製作)、『Ce Gamin, Là』(1976・ドキュメンタリー、ルノー・ヴィクトール)以上の他、直接製作に関与せずともブレッソンのマグ・ボダール製作作品の様に大きく助力した映画も多数。脚本作品(全て共著))『シャルロットとジュール』(1958・短篇、ジャン=リュック・ゴダール)、『Les Surmenés』(1958・短篇、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ)、『Me Faire Ca à Moi』(1961、ピエール・グランブラ→ジヴレーと共に参加、但しノンクレジット)
■別記②…先ず第1小隊の面々では、ヒゲが特徴のピエール・マジュロン(ペンネームの“プチ・ボボ”名でクレジット。『家庭』『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972)、大ヒットTV「Les Brigades du Tigre」(1974-1983)の主演のひとり)、彼と迷コンビのメガネ兵士役はセルジュ・コールベール(『5時から7時までのクレオ』(1962)の♪Sans Toiの作詞家役、後年ルイ・ド・フュネス映画や成人映画!の監督に)、なかなか休暇に出して貰えない兵士役にピエール・ファブル(その後脚本家に、アンナ・カリーナと1968~74年まで結婚)、絵が上手い兵士役のキャブことジャン・モーリス・ジュール・カブは本職が漫画家、週刊風刺新聞「シャルリー・エブド」に携わり2015年1月の同紙編集部の襲撃事件の犠牲になったそうだ。本作のアートワークには彼のイラストを採用しているヴァージョンもある。そして大佐の無断外出者の抜き打ちチェック時にも起きない兵士役は、後に『海辺の恋』(1963)『切られたパン』(1968)等の素晴らしい監督作を撮るギイ・ジル。第1小隊以外では、ハーモニカを手離さないニヒルな兵士役に後の大物作詞家ジャン=マックス・リヴィエール(BBやジュリエット・グレコ、フランソワーズ・アルディらに詞を提供)。またジャンの従妹シャンタルと仲良くなる中尉に“ドワネルもの”『アントワーヌとコレット』(1962)『夜霧の恋人たち』でコレットの恋人アルベール役だったジャン=フランソワ・アダム。その後『柔らかい肌』(FT、1963)やメルヴィル傑作『ギャング』(1966)『影の軍隊』(1969)で助監督に就いた人だ。
*1…もともと自身で映画化するために執筆。某の様な人間にはバイブル=山田宏一氏の名著「トリュフォー ある映画的人生」に記されたベルナデット・ラフォンの証言によると、トリュフォーの構想ではシャルル・アズナヴールと彼女が主演で、GODが映画化を引き継いだ際にもトリュフォーはベルナデットを推薦していたとか
*2…本国フランスではつい先日の10月15日に本作のブルーレイが発売されたが、同盤にも使用された2023年制作の最新マスターでご覧に入れる(エッヘン)
*3…André Mouëzy-Éon. 1880年生まれの劇作家。ヴォードヴィル喜劇やオペレッタで人気を博す。IMDbによれば、ノンクレジットだがルノワールの代表作の一本『牝犬』(1931)の原作の舞台化を手掛け、映画版(米リメイクのフリッツ・ラング監督『緋色の街』(1945)も含む)のベースになったとか。本作では脚色にも参加し、後半のオープンデイのシーンでユーモア協会会長として出た(のがこの人だと思う)。1967年没
*4…André Sylvane(本名Marie-Paul-Émile Gérard). 1851年生まれの劇作家。オペレッタから徐々にヴォードヴィル喜劇へシフト。1904年に上段ムエジー=エオンと組んで発表した「のらくら兵」の舞台が成功し、以後彼と軍隊コメディを連作。1932年没
*5…参考でルノワール版を見たが、敬愛するチャップリン(仏蘭西風にシャルローと書くか(笑))テクを自家薬籠中の物にした監督のシャープなギャグ描写が冴え、いま見ても十二分におもろい。因みに『‘62』と違い伍長は脇役で、大佐がその役割も兼務していた。ジョゼフ役にはやっぱり!のミシェル・シモン(『素晴らしき放浪者』(1932))
*6…他にジャン=クロード・ブリアリ(『いとこ同士』(1959)『黒衣の花嫁』(FT、1968))もカメオ出演したらしいが、1時間23分弱の本作を3時間かけて(!)探したものの、見つからなかった、、、オープンデイのシーンで、客席に座っていた口と顎ヒゲの士官?とも思ったが、当時の彼より年長だよな…あんた、ホントに出てた?(笑)
*7…脚本家フレデリック・トパンによる、本作のブルーレイ特典として収録された監督インタヴューより。この人は昨2023年に出版された評伝「Claude de Givray : l'homme qui venait de la Nouvelle Vague(クロード・ド・ジヴレー、ヌーヴェル・ヴァーグから来た男)」(主にクラシック映画の再公開を行う配給会社カルロッタ・フィルムズ刊)の著者でもある。目次には、本作の製作ウラ話が満載であろう「Tire au flanc 62(左記は本作の原題)- Ecriture du scénario Le Piton」という章もあった。今回は間に合わなかったが、いずれはチェックしてみたい
*8…同じくトリュフォーの親友のひとりで、ジヴレーの“相棒”ベルナール・ルヴォンとの共同。ルヴォンはジヴレーの監督作品(『鎖につながれた恋』他)の脚本も共作している。ところでジヴレーが初めて脚本に参加した、別記①にも挙げたP・グランブラ監督(『スローガン』(1968)『銀幕のメモワール』(2001))の『Me Faire Ca à Moi』(E・コンスタンティーヌと、ここにもいたベルナデット・ラフォン主演)には、トリュフォーの推薦でジャン=ルイ・リシャールがキャスティング、映画初出演になったそうだ
*9…トリュフォー組出身の名匠。トリュフォー作品の製作主任として『暗くなるまでこの恋を』(1969)から『アデルの恋の物語』(1975)まで携わる。1976年『一番うまい歩き方』で監督デビュー後、『死への逃避行』(1983)、『なまいきシャルロット』(1985)、『伴奏者』(1992)、『オディールの夏』(1994)等を発表。2007年の『ある秘密』は良作だった。2012年逝去
*10…映画批評家で、2003~2009年に「カイエ」編集長だったジャン=ミシェル・フロドンの証言によると「1958年から1962年には、200本もの処女作が撮影されました。前代未聞のことです」だったそうだ
*11…ジョゼフが指定した店の名前がCheval D’or=黄金の馬。絶対ルノワールの至高作『黄金の馬車』(Le Carrosse D'or、1953)のモジりだろう。実は本作の翻訳者氏も某も店名を「黄金の馬車」と思い込んでしまい(苦笑)字幕も「馬車」で進めていたが、同氏が入稿の寸前で気付いてくれ、あわてて「馬」に訂正したのでした
*12…こんなシーンも。山田宏一氏の「フランソワ・トリュフォーの映画術」で、トリュフォー作品には「「カイエ・デュ・シネマ」そのものを堂々と宣伝するかのように引用するところも」あるとの指摘があったが、本作にもございます(笑)。あまりに唐突且つダイレクトなのだ。どんな場面かは、見てのお楽しみ!
*13…1865年から1970年までの、ある一族の6つの時代を6話で描くミニ・シリーズで、ジヴレーは全エピソードを監督。共同脚本はベルナール・ルヴォン(*8で紹介)。第2話では“ドワネルもの”のクリスチーヌことクロード・ジャドを起用していた
*14…「カイエ・デュ・シネマ」の編集者のひとりアンドレ・S・ラバルトと、彼を「カイエ」に誘ったトリュフォーの“精神的な父親”=映画評論家のアンドレ・バザンの夫人ジャニーヌ・バザンが共同クリエイターを務めた、映画監督の創作の秘密に迫る名ドキュメンタリー・シリーズ。ロメール、リヴェット、ロジエらの監督がドライヤー、ルノワール、ヴィゴといった先達を取り上げた。ジヴレーはサッシャ・ギトリとジャック・ベッケルの回を担当
*15…ジヴレーだけでなく、彼の家族もトリュフォーと深い付き合いが。ジヴレー夫人リュセット・デムソーはレ・フィルム・デュ・キャロッスの秘書として勤務。また息子のジョルジュは『トリュフォーの思春期』(1976)でしっかり者のパトリック少年役を好演後、脚本家に。あの“フランス版「ジェネラル・ホスピタル」”な長寿ソープオペラ、「Plus Belle La Vie(美しい人生を)」(2004-2022)のクリエイターのひとりでもあった
*参考文献・映像
「トリュフォー ある映画的人生」山田宏一(平凡社)
「Tire-au-flanc (pièce de théâtre)」https://fr.wikipedia.org/wiki/Tire-au-flanc_(pi%C3%A8ce_de_th%C3%A9%C3%A2tre)
「フランソワ・トリュフォー|シネアルバム115」責任編集:梅本洋一(芳賀書房)
「カイエ・デュ・シネマ 軌跡のクリエーションLes cahiers du cinéma, la création d'une empreinte」(2021)
フィリップ・ラスリー監督
「映画とは何か 山田宏一映画インタビュー集」(草思社)
「フランソワ・トリュフォーの映画誌 山田宏一の映画教室vol.1」山田宏一(平凡社)
「Cinéastes de notre temps」https://fr.wikipedia.org/wiki/Cin%C3%A9astes_de_notre_temps
Profile : ミサオ・マモル
映画ひとすじ、有余年(そしてジャズにも…って、だったら“ふたすじ”か?)。映画配給会社を6社渡り歩き、現在は映画探偵事務所813フィルムズの人。事務所開設以来の念願だったトリュフォー監督の関連作をやっとお届けできて感無量。しかし不肖・某なんぞが監督について書いていいのか、と重責を感じつつ取り組んだが、如何だったでしょう…?一つの区切りとなったが、やっぱこれで終わりにしたくない。しばしの眠りに就いている、あんな名作こんな珍作が、まだまだたくさん存在するのだ。今後もぜひ“発掘”してゆきたい。ねぇ誰か、いっしょにやろうよ!(笑)