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【#2】WE ARE WHO WE ARE RADIO |宇野維正/ゲスト:木津毅

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2021.11.24

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映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんをホストに、ルカ・グァダニーノ監督にとってテレビドラマ初挑戦となる『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』の魅力を語る「WE ARE WHO WE ARE RADIO」。第1回に引き続き第2回のゲストは映画・音楽ライターの木津毅氏。今回もルカ・グァダニーノ監督の作家性はもちろん、「イタリアの中の米軍基地」といった本作独特の構図、そして監督ならではの音楽の使い方についても語ります。本記事では、ポッドキャストで語られた内容の一部を文字起こしでお届けします。

目次

不真面目さがグァダニーノの魅力

宇野「初めて見る人のために内容はまだネタバレしたくないので、今回はまずシリーズ全体の構成から触れてみよう。第1話はフレイザーの視点。第2話はケイトリンの視点。第4話が後半はほぼほぼ結婚パーティ。しかもけっこうメチャクチャなパーティがシリーズの真ん中にドンとあり、第6話はドナルド・トランプが2016年の米国大統領選に勝った時のニュース映像がイレギュラー的に用いられエンドロールもずっと続くという、なかなか刺激的な作りになっている。そして第7話で急展開があり、最後の第8話はボローニャでのブラッド・オレンジのライブにフレイザーとケイトリンが行き、ライブ映像も使われている。全8話の中にほぼパーティだけとほぼライブに行くだけのエピソードがある作りのドラマなんて見たことがない。もちろんそれは奇をてらったものではなく、全部ちゃんと意味がある。ところで、前回なぜルカ・グァダニーノに興奮するのか言い忘れたんだけど、一番の理由は不真面目さなんだよね」

木津「というのは?」

宇野「もちろん映画としての撮影や編集の洗練はすごい。洗練だけじゃなく才気走っていて、『えっ、ここで?』という編集の仕方も含めて才能に魅了される部分もある。でも才気走ってるだけではなく、無頓着というか雑というふうにも捉えられかねない、あらゆることに対する不真面目さがグァダニーノの魅力なんじゃないかな。その意味で『君の名前で僕を読んで』は完成度が高すぎた。一方『サスペリア』は練りに練った構成ではあるけど、ちょっと途中からついていけなくなる。あれは“適当”ではなく“不真面目”なんだと思うんだ。イタリア人のステレオタイプ的な不真面目さとも違うんだけど、でもやっぱりイタリア人の監督じゃなかったらこんな不真面目な感じにならないと思うんだよね」

木津「それは分かります。身も蓋もないことを言うと、グァダニーノの初期作なんて男の裸を見ているだけで終わった印象で(笑)、エロティックなものを撮りたいという気持ちが強いんだと思います。グァダニーノの作品は男優だけでなく女優もヌードになるけど、男性をエロティックに撮れるのは、彼がゲイだからというだけでなく、こだわりがあって上手いから。そしてそこにイタリアンエロス的なものを感じます」

宇野「前回の番組で自分も木津君もグァダニーノを大絶賛したけど、世間の批評的には“大絶賛”と“分からない”に二分している。もちろん素晴らしい作品だから酷評はされてないけど、日本人だから分からない云々ではなく、グァダニーノは先を行きすぎていて、人類にとって早すぎるんじゃないかな。彼が不真面目に見えるのも、早すぎるゆえの一つの表れなのかもしれない──という仮定に基づき、今回はグァダニーノの作家性をもっと探っていきたい」

エロスを肯定し続けるグァダニーノの変化と進化

宇野「木津君が挙げたエロティックというか性描写に紐づく話だけど、『僕らのままで』でイタリア米軍基地に女性2人が夫婦として入るというのは、それだけでも大変じゃない?2人の絆があるからこそ成り立っているんだろうけど。ケイトリンの家族も連れ子のアフリカ系女性とトランプ大好き軍人の夫婦という複雑な関係。でもみんな、いろんな困難を乗り越えてここまでやって来たはずなのに、なんか適当だよね。気が付いたらキスしたり浮気したり。大人の世代も子どもの世代も一様に。『僕らのままで』は群像劇であるがゆえに、そうしたところにキョトンとする人もいるだろうね」

木津「確かに。主人公の親がレズビアンということに何の説明もなくて『えっ?』と感じる人もいるだろうし。映画だとレズビアンの夫婦って“いいもの”として描かれがちで“レズビアンも幸せですよ”と強調しなきゃいけない側面があるけど、『僕らのままで』はカップルの不和も容赦なく描いている。でもそれは逆に平等なんです」

宇野「同性愛を前提としている上に、当たり前に不和を描いているから、見ていて追いつけなく人もいると思うんだ。パーティのシーンも『えっ、やっちゃうの?』みたいなことがいっぱいあるじゃない? あと、木津君に聞きたいのは、グァダニーノが2つの偏見を背負いかねない存在であること。1つは、イタリア人ならではの適当さ。もう1つは、偏見だけでなく現実的にもそういう一面はあると思うんだけど、ゲイの人は性に対して開放的だということ。グァダニーノほどこの2つを作品で感じさせる監督はなかなかいないと思う。でも、それが偏見であるとしたら、偏見を助長しかねない危険性をはらんでいるんじゃないかな」

木津「エロスなどのいろんな情動を肯定するという思いがグァダニーノの根っこにあり、ヨーロッパでゲイの情動をどう肯定するかという課題がずっとあった中、彼はその追求を引き継いでいる人。ペドロ・アルモドバルに近いのですが、たとえステレオタイプだとしても肯定すべきというのがグァダニーノの立場だと思います。それで言うと『ミラノ、愛に生きる』は、ティルダ・スウィントンの演じるロシア人妻が、家父長制で抑圧された世界の中でエロスをどう肯定するかという話で、グァダニーノはゲイだけでなく女性の情動も描いている。ある意味、ステレオタイプのその先──エロスに開かれていていいんだという肯定が描かれているわけです。さらに『君の名前で僕を呼んで』は、ゲイがまったく否定されない世界でエロスを肯定する話だった」

宇野「あの作品の時代設定を考えると、そうとう意図的だよね」

木津「原作では1987年だったのをエイズ以前の時代に周到に設定していましたね。『君の名前で僕を呼んで』に対してLGBT系メディアから出た批判の1つが、『1980年代初頭を描いているのに、ゲイが受ける抑圧が落とされている』ということ。特に、社会性を重視する側から出ていました」

宇野「リアリズムという意味でだね」

木津「そうです。しかも『それは白人の特権階級だからできること』と。それはぶっちゃけ一理あるんですけどね」

宇野「グァダニーノはぶっちゃけ、そういう人だよね。父親が学者だし」

木津「そういう白人的な世界を描いてきたグァダニーノが、『僕らのままで』では黒人たちも描くように変わっているし、性的マイノリティの描き方も『君の名前で僕を呼んで』より進化しています。例えば、主人公のフレイザーが同性に惹かれているという描写がありつつ本人は『ゲイじゃない』と否定したり、ケイトリンも女性として生まれて男性の格好をしているけど、当人がトランス男性かどうかは最後まで分からない。つまり、LGBTの区分に収まらない揺らぎを語っているわけです。『君の名前で僕を呼んで』もゲイ・アイデンティティにこだわっていたわけではないけど、今回はさらにその先を描いているなと思いました。

パンセクシャル(あらゆる性別の人が恋愛対象になる人)、ジェンダーフルイド(ジェンダーが流動的に変わる人)、ノンバイナリー(自分の性認識を男女いずれか一方にあてはめようとしない考え方)などの価値観がようやく知られるようになった中で、それをフィクションとしてどう落とし込むか?その点で、性的マイノリティが“WE”という言葉で絆を持ちうる話として描かれていているのがすごい進化だと思いました。

子どもが大人になっていくカミング・オブ・エイジもので性的マイノリティを主人公にした作品は今までたくさん作られてきて、だいたいは自分のアイデンティティを見つけ、社会でどう受け入れられどんな立ち位置を持つかがテーマになりやすかった。でも『僕らのままで』は、自分たちに揺らぎがあっていい、そしてその揺らぎにこそ共感できるんだと描かれている。そこにすごく現代性を感じたし、先を行ってるなと感動しました」

宇野「LGBTQのQ(クエスチョニング)のままでいいということ?」

木津「そうですね。あえて言うなら、Qかどうかも分からないところまで含まれています。だから誰とキスしてもいい。Gを“男性を好きな男性”と理解してる人はキョトンとするかもしれないけど、実はジェンダーやセクシャリティの価値観は世界でそこまで来ていることがドラマで描かれているわけです。古典的なヨーロッパ映画を引き継ぎつつ、ものすごく新しいことをやってるなと思いました」

イタリア映画における黒人の描き方

宇野「そういえば、マーティン・スコセッシ監督の娘フランチェスカ・スコセッシがブリトニーという女の子を演じていたのはけっこうニクイよね。これがまたいい役で、父親が見たら『今の映画はこんなことになってるのか』とビックリするだろうね(笑)。あれだけイタリア系の社会をテーマに描いてきた人が、イタリアで一番すごい現役監督の作品に自分の娘が重要な役で出てるんだから。大人の世界と子どもの世界の分断を描いているわけでもなく、大人で家族がいても揺らぎ続けているというところも重要だろうね」

木津「ケイトリンの母親がレズビアンなのかどうか分からないところに混乱する人もいるでしょうけどね。そこにさらにイスラムの問題が入ってきたり、すごく階層が複雑で難しい。でも、その難しい領域をあえて描いているんだと思います。『WE ARE WHO WE ARE』というタイトルからも、アイデンティティを1つの大きな主題にしているんだなと分かりますが、そのアイデンティティに固定化されない揺らぎがあることを描こうとしているんじゃないでしょうか。あと、今回はグァダニーノの作品に黒人の男の子がたくさん登場しますが、宇野さんは彼らの描き方についてどう思いましたか?」

宇野「さっき木津君が触れた『君の名前で僕を呼んで』の批判についても含めて言うと、実はイタリアに年に何回も行ってた時期が何年かあって。インテルというミラノのサッカーチームの試合が見たくて。当時勤めていた会社にウンザリしてたけど辞める踏ん切りがつかず、完全に現実逃避で借金してまでイタリアに行きまくってね。『僕らのままで』の舞台である田舎町の近くにあるヴェネチアに行ったこともあるし、最終話の舞台になるボローニャにも行ったこともある。ボローニャにはインテルのアウェイゲームを見に行ったんだけど、ハードコアになってくると敵地に乗り込むアウェイの方が興奮するんだよ(笑)」

木津「宇野さんらしいですね(笑)」

宇野「2000年代前半当時はスタジアムの観客が物を投げまくってた時代でね、アウェイのサポーターは柵の中に入れられ、ホームのサポーターと小競り合いにならないよう試合が終わっても1時間半はスタジアムの外に出られなかったんだ。そんな劣悪な環境に追いやられた鬱憤で盛り上がるという、マゾヒスティックな境地なんだけどね」

木津「分かります」

宇野「そうやってイタリアに頻繁に行って思ったのは、南に行けば行くほどアフリカからの難民が多く、人種問題は国ごとに違うということ。イギリスにおける黒人差別問題ともフランスにおける黒人差別問題とも違っていて、はっきり言うとイタリアはすごく遅れている。2000年代の初頭くらいだと、いまだに黒人選手が出るとモンキーチャント(猿の鳴き声を模した掛け声)をやるサポーターがいて、そういう意味での意識がめちゃくちゃ低くて、社会の中でまだ異人種同士が融和していない印象がある。

言われてみたら気づくと思うけど、サッカーのイタリア代表選手はほとんど白人でしょ。もちろん変わりつつあるんだけど、映画でイタリア社会を反映しようとすると、貴族的なものにしろネオレアリズモに通じる底辺庶民にしろ、白人内の階級でしかない。そして映画を作る人はどうしても貴族寄りの出身の人が多い。ルキノ・ヴィスコンティだったりベルナルド・ベルトルッチだったりね。そこは大きく変わってないので、イタリアの監督がイタリアで撮る場合、そこを突くのはなかなか難しい」

“イタリアの中のアメリカ”というねじれの構図が絶妙

宇野「今回グァダニーノは、最初はアメリカで撮るというオファーだったけど、イタリア米軍基地を舞台に選んだ。理由はいろいろあるだろうけど一番の理由は、エイミー・アダムズが幼少期に軍人の娘でイタリアの基地で育ったという話を聞き、アメリカで撮るのもいいけど“イタリアの中のアメリカ”という設定は面白いじゃないか、と。自分もこの設定はとても面白いと思っている。今後グァダニーノはイタリア以外の国で撮ることも出てくるだろうけど、その段階としてすごく面白かった。そこに踏み込む上でいきなりアメリカに行かなかったというのも、イタリア社会と彼の環境を考えたら分からないでもないかな」

木津「なるほど。そこも前回話したグァダニーノの特異なところとつながってますね」

宇野「そうそう。我々日本人にとっては共感できるポイントなんだけど、自分の国によその国の基地があるというのはそんなに多い話ではない。イタリアでもビチェンツァの米軍基地を巡る反対運動が十数年前に起きて社会問題になった。日本だと沖縄に過剰な負担を押しつけることで“なかったこと”にしてるけど、自分は子供の頃から違和感があったし、そこは敗戦国同士の共感ポイントでもあったかな」

木津「イタリアってまだ保守的な部分がけっこう残っていますよね。日本に比べたらマシなんだろうけど」

宇野「マシじゃない部分もたくさんあるよ。イタリアで現地の人から人種差別的な態度をされた記憶もたくさんあるし」

木津「今回はイタリアを舞台にしながら“イタリアの中のアメリカ”を描くというねじれがあり、なおかつそこに黒人というレイシャル・マイノリティや性的マイノリティがいる構図で、うまいなと思いました」

宇野「いろんなイシューをぶっこんでいて、しかもそれがロジカルなさばき方じゃない。そこがスゴいんだよね。」

木津「いわゆる“正しい”人たちが見ても『この問題をどう考えればいいんだろう』というテーマもすごく入っていますよね」

グァダニーノ作品における音楽の使い方の是非

宇野「押しつけないし、答えも出さない。音楽の使い方もそういうところとリンクしている。第8話がボローニャでのブラッド・オレンジのライブというのもなかなかすごい話だよね。狭いライブハウスに観客をギュウギュウに入れたライブシーンは見ててウルッとしたよ。ブラッド・オレンジというアーティストをフューチャーしているのも、今のレイシャル・マイノリティや性的マイノリティのポイントともつながってるよね」

木津「ブラッド・オレンジはすごい複雑な人で、元々イギリスでテスト・アイシクルズというニューレイヴぽいバンドをやっていて、そこからフォーキーなライトスピード・チャンピオンという方向に行く、フラフラした人だったんです」

宇野「揺らぎの人だね」

木津「そしてブラッド・オレンジになり、クィア(セクシャルマイノリティの総称)なソウル・ミュージックやR&Bをニューヨークでやって一気に爆発しました」

宇野「イギリスからニューヨークに移住したの?」

木津「移住したはずです。彼は子供の頃に女の子の格好をしていじめられたという話をしてるけど、本人は自分のセクシャルオリエンテーションやジェンダーアイデンティティについてハッキリしてないはず。クィアということに関してもある種の揺らぎを保ったままでいる人で、そこも『僕らのままで』と通じています。フレイザーのように2016年の時点で14歳であり自分がマイノリティという意識がある子なら、そりゃブラッド・オレンジが好きでしょうね。

しかも作品の中でブラッド・オレンジについて語るシーンもあるじゃないですか。ああいうシーンが僕はすごく好きなんです。カルチャーによって助けられたり自分を発見できたことがあったよなって。だから最終話でブラッド・オレンジのライブが出るのはとてもエモーショナルだし、いいなと思いました。グァダニーノって『君の名前で僕を呼んで』のスフィアン・スティーヴンスだったり『サスペリア』のトム・ヨークだったり、自分の好きな音楽のテイストをぶち込む人じゃないですか。素朴というか素直に」

宇野「今回、ローリング・ストーンズの曲でいきなり踊り出すシーンがあるでしょ?『胸騒ぎのシチリア』と一緒じゃん(笑)。ストーンズ好きまで出してきたもんね。ある意味、今回の作品はグァダニーノのいろんな作品のシーンが見られるベストアルバムのよう」

木津「宇野さんは『映画監督は自分の好きなものを作品に入れない方がカッコイイ』とおっしゃってて、僕もそれは分かるんだけど、グァダニーノのこの感じも好きなんです。そのあたりをどう感じますか?」

宇野「これは自分の考えだけど、映画監督にとって一番重要なことって、自分の想像していた世界を実現できる撮影監督と劇伴の音楽家を見つけられるかどうかだと思うんだよね。スティーヴン・スピルバーグにせよデヴィッド・フィンチャーにせよアルフレッド・ヒッチコックにせよそうじゃない? で、『サスペリア』のトム・ヨークに関しては劇伴からの発展型の主題歌だからいいとして、グァダニーノはまだパートナーとなる音楽家を固定してなくて、今回はポップソングをたくさん使うという手法を選択している。

でもね、ポップソングを使うのはとても難しい。昨年『WAVES/ウェイブス』って映画があったでしょ。監督のトレイ・エドワード・シュルツは白人だけど黒人を主人公にしていたり、抑圧的な父親の元で子供が反発しながらどう育っていくかというテーマも含めて、『僕らのままで』のケイトリンと重なるモチーフだと思う。今の世の中のいろんなことを取り込もうとして作品が似てくるのは面白いよね。ただ、『WAVES/ウェイブス』はフランク・オーシャンの曲に語り語らせている作品で、自分はそこに冷めちゃうんだ。よく“フランク・オーシャンが好きだから『WAVES/ウェイブス』も好きでしょ”と言われがちだけど、いいシーンに全部使ってたら映画監督の意味ないじゃん」

木津「文脈としても乗りすぎてるというか、脱トキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)の話をフランク・オーシャンに託しすぎかなというのは僕も感じました。そうなる理由も分かるけど、問題というか難しい点ですね」

宇野「自分は新海誠監督の映画で最近の2作品が特に好きなんだけど、彼もRADWIMPSとそういう形のコラボレーションをするでしょ。テーマを乗っけて、何なら台詞の代わりに歌わせるという。そういうのが苦手なんだ。『僕らのままで』ではブラッド・オレンジが乗っかってきてるけど、ブラッド・オレンジは実際に出てきてライブもしてるからいいとして、他のポップソングはポスト・マローンからフランク・オーシャンまで基本的には適当に使ってるじゃない? パーティの一番けだるい時間でフランク・オーシャンの「Nikes」が流れるという、あの使い方は超正しいと思う。フランク・オーシャンの音楽はいろんな映画監督が使いたがるけど、この雑な感じが一番いい。まあ正直言うと、映画監督として別格にスゴいグァダニーノに対して僕は甘いよ(笑)」

木津「挿入歌に関してはミュージック・スーパーバイザーが入っています。ロビン・アーダングという女性でグァダニーノのこれまでの作品でも担当している人がいるけど、その中にアート・リンゼイを入れたり自分のテイストをぶち込んでくるじゃないですか」

宇野「そうそう、ジョン・アダムズで始まるところとかね」

木津「グァダニーノのそういうチャーミングなところは好きですけどね」

宇野「ある種のイタリア人的な無防備さを感じるよね。そういうことが許されるところが」

木津「『サスペリア』をジョニー・グリーンウッドではなくトム・ヨークに頼むところにグァダニーノらしさが表れていると思います。映画の総体としてというよりは、俺はトム・ヨークが好きで情感を乗せてしまうという。しかもクライマックスでトム・ヨークの歌がかかって『何これ?』みたいな感じになっていて(笑)」

宇野「けっこうトム・ヨークがもっていってるよね」

木津「そこがグァダニーノの変というかユニークなところであり、僕が個人的にすごく好きなところでもあります。ある意味、不真面目だけど」

宇野「だらしないんだよね。グァダニーノぐらいスゴい監督だと、だらしなくていい(笑)」

木津「そのだらしなさが確実に魅力になっている人ですよね」

イタリア映画の歴史を継承する本気の覚悟

宇野「音楽以外の固有名詞で言うと、ラフ・シモンズが出たりギャルソンのオータム・ウィンターコレクションをスマホで見たり、音楽以外の固有名詞で言うと、ラフ・シモンズが出たりギャルソンのオータム・ウィンターコレクションをスマホで見てたり。主人公のフレイザーのニューヨークから来た14歳のファッショニスタっていう設定が微笑ましいよね」

木津「そうですよね。フレイザーで僕が笑ったのは、部屋に『ブルーベルベット』や『ラストタンゴ・イン・パリ』やクラウス・ノミのポスターが貼ってあるところ。そんな14歳はハイブローすぎるだろ(笑)」

宇野「それを言われると辛い。大根仁の映画でやりそうなことだよね。監督が好きなやつじゃん!って」

木津「個人的な話で恐縮ですが、僕が十代で映画を好きになったのはゲイ・カルチャーに興味が出た頃で、アクセスするのはヨーロッパ映画ばっかりでした。ヴィスコンティにアルモドバルにそれこそピエル・パオロ・パゾリーニにも手を出したり」

宇野「パゾリーニも今回の作品でモチーフになってるらしいね」

木津「それは僕が進んでたということではなく、ただエロティックなものを見たかっただけですが。日本にそういうものがないから、ある種のリビドーとして映画にアクセスしていました。僕より上の世代で映画が好きなゲイは、けっこうそういう方が多いんです。そこが映画の入り口になっていて、グァダニーノにも少なからずそういう部分があったんじゃないかな」

宇野「それは木津君の立場からだから言えるけど、俺の立場から『ゲイの人は美的センスが鋭い』『ファッションに敏感』『ヨーロッパ映画が好き』とか言えないよ。すごい押しつけになるから」

木津「たしかに(笑)。ただ実際そうではなくなってきてると思います。もしも今、自分が十代のゲイで日本で育っていたとしたら、Netflixに見やすいティーンドラマがたくさんあり、その中にゲイのキャラクターがいっぱい出てくるから、それで満足していたかもしれない。そうやって時代が変わりつつも、グァダニーノは自分の感覚と新しい世代の感覚をうまくミックスしている感じがすごくあります。必ずしも旧世代のステレオタイプというわけでもなく、そうではないものも乗ってるというバランスが『僕らのままで』にはよく出たんじゃないかな。『君の名前で僕を呼んで』は昔ながらのヨーロッパ的な文脈が強かったかもしれないけど、今回はイタリア米軍基地というモチーフが入ることによって、アメリカぽいポップカルチャーのポリティカル・コレクトネス的なアングルも新しくなってるなと思いました」

宇野「グァダニーノが信頼されるポイントとして、アメリカのポップカルチャーとか英米の大物の役者と仕事してもやっぱり彼の作品はイタリア映画なんだよ。『サスペリア』も舞台がドイツだけどダリオ・アルジェントの古典の新解釈なわけで、イタリア映画、ひいてはヨーロッパ映画の歴史を継承するという思いにおいてはすごく真面目な人だと思う。今回も最終話の舞台がボローニャなんだけど、ボローニャはパゾリーニやベルトルッチの名作がたくさん作られた場所であり大学の街。フレイザーの部屋に『暗殺のオペラ』のポスターが貼られてたら分かりやすいんだけど、あえて『ラストタンゴ・イン・パリ』というのは“欲望についての作家”というグァダニーノのアイデンティティなのかもしれない。

それと同時に、ご存じのように『ラストタンゴ・イン・パリ』はワインスタイン事件よりも前にMeTooのきっかけになった作品でもある。ベルトルッチが2018年11月に亡くなった時、もちろん偉大な監督だから一定の追悼記事は出たけど、『ラストタンゴ・イン・パリ』の撮影現場で起きたセクハラ&モラハラ事件を撮影から40年以上経った晩年に糾弾されていなかったら、ベルトルッチに対するリスペクトをもっと多くの人が公に口にしていたはずなんだよ。2018年はMeTooの空気が今よりも支配的だった時代だったこともあって、自分はベルトルッチが正当に弔われてないという印象を強く持った。
グァダニーノがあえて『ラストタンゴ・イン・パリ』のポスターを用いたのは、それもあったんだと思う。彼はイタリア映画の革命児ではなく、イタリア映画の歴史の正当な後継者。そういうイタリア映画の歴史を、負の部分も含めて背負うという覚悟がグァダニーノにはある。いろんなことは不真面目だけどそこは真面目という」

木津「そういう意味で言うとグァダニーノはクィア作家の系譜としても真面目で、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの影響もデカいと思います」

宇野「『サスペリア』は特に影響があったよね」

木津「あれは舞台がドイツだし、ニュー・ジャーマン・シネマの要素があるし。ファスビンダーもヨーロッパだけでなく映画のセクシャル・マイノリティの表現を芸術的に一気に変えて前に進めてしまった一人で、そういうものの後ろに自分がいるということを表明している印象はすごくありますね。そこも僕がグァダニーノの好きなところです」

宇野「でも現れ方はファスビンダーとは逆だよね。あんなに悲劇的にならないから。今回もすごく気持ちのいい終わり方なんだけど、思えばグァダニーノの作品って気持ちのいい終わり方ばっかりしてるよな。『サスペリア』はどうか分からないけど(笑)。『僕らのままで』はこれまでのグァダニーノの濃度がまったく薄まらずに8時間続いてしまうという、ありえないことが起きていると言っていいよね」

木津「『君の名前で僕を呼んで』を見た時、周りの友達に『物語も好きだけど究極的にはどうでもよくて、見ていてただ気持ちいいんだ』と言ってました。もちろん『僕らのままで』も話は面白いし構成も素晴らしいけど、こういう映像体験を8時間もできるというのは幸福だし、我に返っていろいろ細かく考えても奥行きもすごくあるし、本当にスゴい作品だなと思います」

ベクトルの異なる注目作が今後も待機

木津「グァダニーノは今後も次回作がバンバン控えていて楽しみですよね」

宇野「『スカーフェイス』のリメイクまであるんだから、何するの?って感じだよ」

木津「グァダニーノとしては『スカーフェイス』のリメイクというよりトニー・モンタナの話として考えていて、そこも『サスペリア』と同じですね」

宇野「ブライアン・デ・パルマの『スカーフェイス』は聖典になってるから、それを撮るってなかなかの勇気だよ」

木津「そういうところは不遜ですよね」

宇野「そこは不真面目じゃないとできないよ」

木津「『蠅の王』の映画化の話もあるし、他に僕が楽しみにしているのは、昔のハリウッドで同性愛が隠されていた時代に、ハリウッドスターに売春を斡旋していたスコッティ・バウアーズの人生を映画化するという企画。まだどうなるか分かりませんが、ぜひ実現してほしいですね」

宇野「控えている企画がそれぞれ全然違うベクトルなんだけど」

木津「全部面白そうですね」

宇野「それでも出来上がったらグァダニーノの映画でしかないのが分かるんだ。彼はストーリーのオリジナリティがどうこうという監督じゃないよね。そんなところにいないというか、そこがカッコいい。普段の不真面目なトーンと、それでもやる時はちゃんとやる真面目さとのバランスは憧れです」

木津「僕も憧れますね」

宇野「ポール・トーマス・アンダーソンの場合は二十代の頃に『こんなスゴい奴が同世代にいる』とこっちは打ちひしがれていたけど、グァダニーノを意識したのは自分も彼も四十代になってから。四十代になっても同年代にこんなスゴい奴が現れるのか!と新鮮な驚だったし、彼がいるおかげで映画を見る楽しみが何%か増したよ」

木津「そうですね。『僕らのままで』に関して言うと、そういう映画好きが惹きつけられてしまう魅力がありつつ、今の十代がアクセスできるものに仕上げてくるところが、すごいバランス感覚。そしてバランス感覚だけじゃなく、野心もあるのかなと思ったりします。そういうところは本当にカッコいいですね」

宇野「マジで。このポッドキャストも十代や二十代に伝わるといいな。ちょっとでも助けになると本望です。木津君、2回に渡ってありがとう」

木津「こちらこそ、ありがとうございました」
『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』
原題:WE ARE WHO WE ARE
動画配信サービス スターチャンネルEX にて配信中!
Photo by Yannis Drakoulidis (c) 2020 Wildside Srl - Sky Italia - Small Forward Productions Srl
(2021年3月)
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