『
続・荒野の用心棒』――
いわずと知れた「ジャンゴ(原題DJANGO)」である。1965年から1966年にかけての冬に撮影された。監督はセルジオ・コルブッチ。助監督仲間のセルジオ・レオーネより1学年上で、性格が明るく仕事が早いコルブッチは、イタリア映画界で早く出世していた。1950年代末から監督を務めるようになり、イタリアの国民的人気喜劇俳優トトに気に入られ、1961年にはローマ建国の英雄を描いた史劇『逆襲!大平原』で西部劇のようなアクション・シーンを見せた。『荒野の用心棒』の前年に、旧ユーゴスラヴィアで西部劇『グランド・キャニオンの大虐殺』[1963]を、レオーネと同時期に盲目のガンマンが無実の罪を晴らす『ミネソタ無頼』[1964]を撮っていた(実はコルブッチは助監督時代に撮影中の事故で片目を失明している)。
『
続・荒野の用心棒』[1966]は、プロデューサーから急遽頼まれた仕事で予算も少なかった。レオーネが黒澤明の『用心棒』を翻案して大成功していたことから、コルブッチは“俺流”西部劇版『用心棒』を作ることにした。そもそも、レオーネが『用心棒』を見るきっかけは、ローマの映画館で見たカメラマンのエンツォ・バルボーニが
「凄い映画がある」と言い出したからで、コルブッチ、レオーネはじめドゥッチオ・テッサリ、マリオ・カイアーノ、セルジオ・ドナティ、トニーノ・ヴァレリなど、当時若かった助監督や脚本家の仲間たちと
『用心棒』を西部劇に翻案するアイディアを夜通し語り合っていたのだ。
ところが、レオーネはバルボーニではなく別のカメラマンと組んで『荒野の用心棒』を撮ってしまった(ジャック・ダルマスことマッシモ・ダラマーノ)。コルブッチは
最初の“発見者”を尊重し、仁義を通してエンツォ・バルボーニにカメラを任せたのだ(バルボーニはのちに、E.B.クラッチャーの名で『風来坊/花と夕陽とライフルと… 』[1971]を放ち、レオーネの『夕陽のガンマン』[1965]が保持していたイタリア映画界興行収入ナンバー1の座を奪って見せることになる)。
流れ者がさびれた街へやってきて、2つの悪人集団と戦う……おおまかなストーリーは『用心棒』『荒野の用心棒』と同じだ。制作会社は違うのだが、日本では、
たまたま配給会社が同じだったので『
続・荒野の用心棒』と名付けられた。『荒野の用心棒』は勝手なリメイクだと黒澤明と脚本家に訴えられた(後に和解)が、『
続・荒野の用心棒』はおとがめなし。もちろん、コルブッチは本家とはまるで違う強烈な味付けを施していた。
「ジャンゴ」のキャラクター名はジプシー(ロマ)出身のジャズギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトからとられている。共同脚本家のひとりフランコ・ロゼッティによれば「脚本の修正を頼みたいと言われてコルブッチに会うと、主人公が棺桶を引きずって登場すること以外何も決まっていなかった。修正仕事といったのはギャラをケチるための作戦だったんだ(笑)。
ちょうど彼にラインハルトのレコードを貸していて返してほしかったんで、主人公はジャンゴでどうだ、と言ってみた」
ジャンゴ・ラインハルトは左手に火傷して指2本が不自由だったにもかかわらず、超絶技巧のギタリストとして知られていた。そこで、コルブッチは「指を潰された男が逆襲する映画」にする。こうして、キャラクター名と映画の最初と最後は決まった。
そして何人もの候補の中からコルブッチ夫人が気に入った青い目をした(スタントもできる)若い俳優フランコ・ネロが主役に抜擢され、撮影されたのが『
続・荒野の用心棒』だ。